鏡真人作品集

大正11年生まれの鏡 真人(きょう まさと)の作品集です。戦中戦後の激動の時代の思いを、詩や短歌で綴っています。

蜘蛛

 縁に机を出し平家を朗読していると、何か微かな音が耳に触れた。ブブ、ブ、ブンブン、音は慥かに私の胡座をかいた左膝のあたりでしている。私は読みかけの本から、そこへ眼を写した。硝子戸の敷居に二本の線がある。その真ん中に小さな蟲が動いている。蚊であった。華奢に足が長い身丈に藻掻いているのだ。何という名かは知らない。俗に私たちが足長長兵衛という、その蟲である。それがしきりに藻掻いているのだ。

 よく見ると、彼よりも少し小さい土蜘蛛が、腹のあたりを強くかみついているのだ。蜘蛛は食いついたなり、六本の足をグッと強く張って動かないでじっとしている。

 長兵衛はブルン、ブルン、と身丈にあまる長い足を上にあげ下に伸ばして盛んに踠く。薄い、パラフィン紙を思わせる羽根が飛び立とうとするのか、時折ギクッと動く。少し経つと羽根は小刻みに震えだした。足は伸びたり縮んだりしている。それが如何にも賢明な動作に思えた。それにひきかえ蜘蛛のじっとしている様子は実に太々しい。私は助けてやろうかと思った。しかしそれを見続ける興味の方が遙かに大きかった。私は両手で顎を支え、息を殺して眺めた。

 長兵衛は足と羽根との努力を実に根気よく続けた。足掻くと言うよりもむしろ元気な動作でそれを続けた。しかし、次第に彼は弱ってきた。大きく動いた彼の長い足も思い出したように伸ばしてみるだけで、羽根も痙攣としか見えなくなった。

 蜘蛛はじっとしている。もう駄目かな、と私は思った。

 すると、蚊はまた足を動かし始めた。そんな動作を何度か繰り返した揚げ句は、やはり彼の負けだった。

 羽根の震えは止んでしまった。そして宙にあげていた長い足が、ガタンと音のするように板の上に落ちた。それで萬事が終わりだった。私がそう思った時である。蜘蛛はそれを待っていたかのように、蚊を加えたままツッと素早く走った。ズルッと蚊の大きな図体が引きずられた。蜘蛛は地面に飛び降りるつもりらしい。

 私は人差し指で彼を追った。そうして、彼がガッと噛みついている長兵衛の、その長い足の一本を引っ張った。彼は一寸引き戻されそうになった。私は更に強く引いた。スルリと抜けてしまった。蜘蛛は素早く走る。私が長兵衛の二本目の足をつかんだ時、蜘蛛は蚊を口から離してヒョイと地面へ飛んだ。長兵衛の死骸は仰向けになって落ちた。

 蜘蛛は死骸には未練が全くないように見えた。少し離れたところで向こうをむいてじっとしていた。

 蟻がその付近を何匹もゆく。彼はそれを一寸見るだけでは矢張りじっとしている。その様子が何かもっと大きい第二の獲物を狙っているように見えるのだ。

 蟀(コオロギ)が蜘蛛に向かった走ってきた。これは長い触角を持っている。蜘蛛は先刻からそれを見ていたらしい。の方ではその時まで、蜘蛛の存在を知らなかったのか、二糎(センチメートル)位の間隔のところまできて、驚いたように -私の目にはそう見えた- 歩みを止めた。その様子が如何にも睨み合いなのだ。私は可笑しくなった。

 蟋蟀はその長い触角をユッタリと振り廻している。何をする気なのか、と私は思った。その触角は時折、蜘蛛の頭上にかかり触れそうにも思えた。

 私は巌流島を思い浮かべた。そう思って眺めると愈々それらしい。蜘蛛が佐々木小次郎で蟋蟀が宮本武蔵だ。

 少し経った。蜘蛛の後足が急速に動き始めた。身体がグッと土くれの上に乗り出した、と思った時、彼は相手に飛びついていた。それは実に敏捷な動作だった。私はそれを感嘆して眺めた。全く素晴らしい速さだった。

 やった! 私がそう思った時、蟋蟀はすでに早く十糎も跳ね飛び、それからもう一度ヒョイと跳んで縁の下へ隠れてしまった。

 蜘蛛は -この私にいろいろな芸当を見せてくれた蜘蛛は- 飛びついたそのままの姿勢で、小さな足でガリガリと地面を引っ掻いていた。

 - 私の眼には慥かにそう見えた。如何にも無念そうだった。しかし蜘蛛はそのまま、またもやじっと動かなくなった・・・。

(昭和十八年九月)