鏡真人作品集

大正11年生まれの鏡 真人(きょう まさと)の作品集です。戦中戦後の激動の時代の思いを、詩や短歌で綴っています。

あとがき

戦死せし

五来川上斎藤よ

わが青春の

糧たりし友よ

 

 この詩集を思い立ったとき、敗戦まえに詠んだ作品は全部除くつもりで読み直してみると、そこには、かつての私にだけあって今の私にはないものがあると、改めて思い知らされた。今の私にないのは自ら捨てたためといってもいいが、詠まれた世界は私自身の歴史だから、敢てこれらも加えることにしたのである。

 

 昭和戦争時代のこれらの詩や短歌は、ひどく粗雑でありまた稚拙であって、かつ冗長である。更に「神」という文字が何度も出てくる、というように言葉遣いが安易であり、今の私にはかなり抵抗ある作品が多い。それにも拘わらず、詩情があると思う。

 当時の私をいまは他人のように眺めているのだが、作品の背景には、ひたむきな祖国への愛と天皇への畏敬があった。だから、こういう詩が詠めたのである。幸せだったというべきだろう。

 

 その頃、二、三歳下の仲間たちと四人で、歌集発行を企画したことがあった。戦争は、いよいよ苛烈となって日本の苦戦の様相が、誰の眼にも露骨に感じられるようになっていた。私たちにもいつ兵隊にとられるか切迫した思いがあった。いわば遺書のつもりであったのである。それぞれ自分の短歌を原稿紙に清書して持ち寄り、一本にまとめようという約束だったが、全部集めきれぬうちに私は応召した。預かっていた原稿は空襲で焼失してしまったという。知人からの手紙が軍隊に届いたのは、何ヶ月もたってからである。「さがらか(相楽)」という歌集の名だけが残った。それらの歌は幼稚ではあっても、若い魂の叫びとして深くこころを打つものがあった。しかし残念なことに、仲間たちの歌は私の記憶にある二、三首を除くと最早見ることができない。その中のひとつ

 今閉づる眼 見開き 敵前に 腹切らんとす アッツの兵は

 学徒出陣で戦死した斎藤良雄の歌である。重傷を負いながら自決してゆく日本兵を詠んだものだが、死に臨んでの覚悟をこれほど見事に詠んだ歌を、私は他に知らないのである。

 北満で戦死した斎藤は、やっと満二十歳ではなかったろうか。

 

 自分と詩とのふれあいを語るうえで、私はW町時代を省くことは出来ない。敗戦の翌年から数えて四年目に、私はS区からW町の工場へ転勤した。ここで知り合った仲間五、六人で、詩の集まりをもつことになったのである。月に一度ほど集まって詩の朗読などをしているうち、自分たちの詩を載せる同人雑誌に発展した。これはガリ版の粗末な雑誌だったが、誌名は萩原朔太郎にあやかって「氷島」とした。この期間は、しかしあまり永くはつづかなかった。老朽化したこの工場は閉鎖され、東京や他の近県の工場などに集約されることになって、詩の仲間たちもばらばらになったのである。

 振り返ってみると、私の乏しい詩作の中で、昭和二十六年というこの「氷島」時代が、中身はともかく詩作の最も多い年である。しかし、主張だけを前面に押し出した失敗作が目立つ。私が次第に詩をつくれなくなったのも、この傾向のためである。主張は、一旦胸中に収め充分に消化したうえで、詩に向うべきだったと思う。

 

 仲間のひとり伊藤文章と私は極めて親しかった。その筆名を文章としたように、じつに素朴で優しい人柄であった。酒をこよなく愛し、自分では汚れてしまった人間のように見せていたが、奥深くに不正を憎む気持が強く、そういう自分に忠実すぎるほど、忠実な人生を進み、遂に斃れた。思想に殉じたのである。

 

 いま、私は永い年月の間の作品としては、驚くほど少量の、そして驚くほど拙く貧しい、この詩集を漸くまとめあげた。自分の歴史を遡るという意味で、僅かの訂正にとどめるとともに、仮名遣いも当時のままとした。

 

平成元年一月二十二日 

鏡 真人